昭和五十七年十月十七日 朝の御理解
御理解第十八節 『此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりでない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生れるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。』
お道の信心は生神への精進だと言えると思います。お互い、一歩一歩生神へ向かって進んで行っておらなければならない。教えのすべてが生神になる手立てと言ってもいいのです。そこでいよいよ神様を信じて疑わない、神様を信じ切ることの出来れるおかげを頂く為の手立てと申します。
昨日はあのように盛大な、それこそ薫るようなおかげの中に御大祭終止することが出来た。薫るようなおかげとは、いわゆる神乍らなおかげということでありましよう。
丁度、夏の少年少女会大会の演奏がここの新館でありました時に聞かしてもらっておる時に頂いたのです。本当に神乍らな、少年少女会のお育てを頂いて、神乍らな働きの中に、あの、まあ私共素人では分かりませんけれども、神乍らな演奏会がございました。薫るようなおかげを頂いた。
それからすぐお祭が、一月前位かな、あそこへ看板が大きゅう出来ました時に、看板が出来ましたから見てくれというわけで久しぶりに外へ出ましたら、あのように見事に看板が出来ておった。神様に御礼申し上げて頂いておったら、『薫るようなおかげ』ということを頂いた。
こちらが思うておった、願うておった以上に、まあ出来あがってることということなんですね。まあ言うならば記念祭の看板があのように神乍らに出来、薫るようなおかげが出来たんだから、お祭とても、やはり薫るようなおかげだから、神様は薫るようなおかげを下さることの為に、こちらもその薫るようなおかげを頂き止めなければならない。
いよいよ成行を大事に尊ばせて頂かなければならない。薫るという字が、くさ冠に、重んずる、と書いて点点点点、心ですね。昨夜神ながらな受け方、頂き方というものが、まあ神乍らな御大祭、薫るようなおかげの中に終止することが出来るようにという願いを持ったからには、その働きの邪魔にならないように、邪魔にならないようにという願いと修行がいるわけでございます。生神への精進というのはいつもそうした薫るようなおかげの中にも、確かに生きていけれる生活が出来ることだと思うです。
昨日若先生が、この、もう、御直会が済んだあとです。報告にきてくれまして、もう本当に今度の御大祭は初めからそうでしたけれども、御大祭に入ってから、ただ今までもう、あのう他の教会の先生方の中にも、もう本当に神ながらと言わずにおられない、思われないような有難い雰囲気の中に、また御信者の皆さんがそこで、グループ、グループでいろんな御用を頂いておられるが、もう一人一人が神様の姿に見えたという程しに、それこそ嬉々として喜び一杯で御用頂いておる様子を見せてもろうて、親先生が言っておられたように、もう本当に薫るような御大祭で終止したと言う、まあ報告を受けました。本当にね、ですから生神への精進とは、そういうおかげを日々頂いていけれるところから、成程神乍らだなというおかげになって来るのです。
昨日の瀬戸美喜雄先生のお話の中にも勿体ないようなお話、教祖様の御あられ方、それから私の生き方というものが、こう合わせ鏡のように、その裏表のように、こう言っておられる様子を、まあいろいろな角度から、あれは「和賀心時代を創る」という本を読んでおられたのだろうと思いますが。
中にたとえば親教会に参拝の時でも、もう今にも降りそうであるから傘を持って行くことを願われると、傘はいらんと、それで傘を持たずに出たところが、勿体島のあたりでぼちぼち降り出した。また善導寺の町に入ったらとたんに降り出した。または教会のもうすぐそこが教会というところで降り出したという時に、私はあの話を、神様は絶対であってこちらの頂き方がまだお粗末だから濡れたんだ。今度は勿体島のところから降り出したから、次には善導寺までそれだけ神様は確かに現われて下さった。お教会に着いた。着いた途端にダア-ッとおしめりがありだした。というように神様を確かなものにしていく精進のところの話を、瀬戸美喜雄先生はね、例えば勿体島なら勿体島で濡れなかったことを御礼を言っておられるというふうにお話になりましたね。これから先は濡れる。それは自分の不行届、自分の頂き違い、神様は絶対なもんだ。間違いはないね。
私は、あのう、まあ随所に私のお話が出てくるのですけれども、確かにあの教学者の方の頂き、とらえ方というのは、また違うと思いましたね。まあそういうお話を聞きながら、今日の御理解を頂いて思いますことはですね、お願いしておかげを頂いて、ここまではおかげを頂かなかったじゃなんて、ここまではおかげを受けておる。それから先頂けなかったところは、私のまだ信心の不調法をするような頂き方をして、これが完璧に段々おかげを受けていけれるような稽古、そこに、なら、稽古の間、あっ自分の在り方がこれじゃいかん、これは間違っておる。ここは研かな、ここは改まればというふうな、そういうふうな精進をしながら、一歩一歩絶対な神様、まあ言うならばね、的はそこに間違いがない。その的へ向かって、まあ弓矢を、こう放つようなものであって、それが百発百中当たるようなおかげを頂くことの為に、まあ稽古をしてね、的は絶対なものなんだ。
けれどもこちらがまだ的を射抜くことが出来るのであってね。そこに稽古がある。その稽古こそ、私は生神への精進だというふうに思うんですね。もうここまでは絶対。たとえば、なら当時の椛目から善導寺までの間の、まあ雨のことであってもね。勿体島までは濡れなかったから有難かった。勿論そうだけれどもね、それは結局私の頂き……
それが例えば濡れたにしてもね、こちらのいわゆる計算違い。こちらの頂き違いであるんだというような頂き方から、こう、なら善導寺の町に入るまで、お教会に着いたら途端に降って、おかげで濡れんですんだというように、段々それが、こうせばめられていくというふうに思うですね。
今朝からも若先生から報告を受けた、それこそ薫るようなおかげを受けてということの御礼を申さして頂いておりましたらね。私が「ソロバンを持たないからだ」と頂いたです。計算づくじゃない。人間心じゃない、どこまでも神乍ら、まあ最近私の信心修行と言やあ、心行から神行とね、神の行、そこにはね、人間心をはさむ必要がないね。いよいよ成り行きを重んじる、尊ばして頂く行き方でおかげを受けていく。
そこに神乍ら、人間心を使わんで、使わんわけにはいけないが沢山ありますけれども、それを一歩一歩、一言一言使わんですむおかげを頂いて、そこに洗練された心の状態で、もう不安も心配もない。神様を信じ切って、黙って治めていけれる。人間心を使わんですむ、いわばソロバンを持たんですむ生き方こそね、生神への、生神への精進、生神への精進という、ただ金光様の信心頂いて毎日参りよればということじゃない。
そういうね、ひとつ本当に神様を確かに信じていけれる手立というものを身につけて行って初めて、生神への精進ということになるのですね。まちがいは向こうじゃない、こちらにあるだけである。そのこちらの間違いを正していくうちに、なら成程絶対いわゆる百発百中ね、神様の仰せ通りにしてさえおればおかげが受けられるという世界があるね。
「生神とは、ここに神が生まれるということであって」とこう、「皆もその通りのおかげが受けられる」その通りのおかげが受けられる為の精進をね、いよいよ成り行きを尊ぶ生き方ね。また瀬戸先生のお話の中に感じた。雨に降られた濡れたという所のね、神様が「傘はいらん」と仰せられたから持って行きませんでしたらぬれましたというようなものではなくてね。ここまでは濡れんですんだ。これから先濡れたところはこちらのまだ信心の頂き違いであったとして、ここを段々せばめていく。濡れんですむおかげを頂くという、段々せばめていくね。
そういうせばめていくというそのこと事態がだから、まあたどこかが間違いがある。まあだ頂き方が間違い、まあだソロバンを持っておる。人間心を使っておる、というふうにね、それをソロバンをいよいよ一つ一つはずしていけれる行き方を身につけていくということが生神への精進であり、手立てであるというふうに思います。 おかげを頂いて、私は、もう昨日お祭がすんで、大変こう気分も段々よくなりまして、何て言うですか、酸素吸入です。何かここにこう当ててする。あれをこうして頂いて、非常にこう楽になってもう今朝なんかもあのう、大変あのう、身体の調子もいいし、気分もそう快ですね。本当に昨日のお祭、記念祭が峠として、いや、峠を越えて、身体も段々に楽になっていくことだろうと思いますがね。 これなんかもやはり生神への精進の中にね、一日一日、一歩一歩神様へ近づいて行っておるなあという実感をね、感じながら生活をお道でいう信心生活だというふうえに思います。いつまでたっても神様を信じ切れない。もう自分の思いやら考え方ばっかりで悩んでおったんでは、いつまでたっても生神へなどということは到底出来ませんね。
ですからソロバンを取るということはある意味あいで、まあ離れ業のような時もあります。言うなら度胸が要ります。けれども、その精進こそが生神への精進、誰でもおかげが受けられるというが、なら、誰でもただ御神縁を頂いておれば誰でも生神になれるということではない。そういう稽古、そういう手立て、しかもそれを有難く楽しく実験実証していけれるということが有難いのです。
お互いひとつ生神への精進、それは日々が薫るような確かなおかげにつながっていく信心生活でなからなきゃならん。一遍にとるということは出来ませんけれども、結局ソロバンを持たない生活ね。いわゆる人間心を一つ一つはずしていけれる稽古ね。そこから確かな生神への道が約束されるというふうに思います。
まあ、昨日若先生が申しますように、もう本当に皆さんがまあ嬉々として御用を頂いておられる姿。一人一人が神様の姿だね。だから皆さんがこの御大祭を通して、一生懸命御用をなさったというようなことはやはり、だからね、人の目にも生神の姿に見えるように、生神への本当の御用させて頂いておるということは、もう間違いなく生神への精進をさして頂いておるということになりますよね。どうぞ。